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死を自覚すると生を意識する

コンタクトマンのミツシュウラです

昨日、長々と色んな話をしていたのですが

その延長で、今日思ったことを書いて見ます

最近思っていたことの答えを閃いたというか。

筆者は、生まれる前の世界を覚えています

そこからこっちの世界にくる過程も全部

はっきりと覚えていますし、生まれてから

7歳まで自分の近くにいた、生まれる前の

世界の使者(指導者)のことも覚えてます

そのことが原因なのですが、子供の頃から

こちらの世界で生きて死んでその世界に

帰っていくということを自覚しています

だから筆者にとっては、こちらで生きる

ということとは、死に向かっていると

いう自覚があり、死ぬまでにできること

やれることやるべきこと、色々ありますが

そこが頭を離れません。

だから惰性で生きることができません

死のことがあるからです

でも、多くの人たちは死のことより

幸せを目指している人が多いと思います

生きている間に目指していることが

幸せとか、覚醒とか、達成とか何かで

死に向かっているということがあまり

意識にないというか。

昨日、80代の方と電話で話したのですが

その方はあと10年は生きると言いました

おそらく人は60代を超えると余生について

考えるので、もうすぐ死ぬかもしれないと

思うと、生を意識するのだと思いました

死が間近になって初めて、生への気持ちが

強くなると思います

それが筆者は死が隣にあるリアルな感覚が

若い頃からずっとあったので、年をとって

どういう生き方がしたいかと子供の頃から

考えて意識して生きていました

おそらく、本当にもう長くはないなと思ったら

いつ死んでもいいとは思わないと思います

それよりも生きている時の意識が強くなり

生が終わることへの意識も出て来ると思います

それを自覚したら、生きている意識が強く

なるから、若くても年をとっても、生きる

ということをおろそかにできなくなるし

めんどくさくてもやろうと思うのです

そして、幸せを目指さない生き方になります

達成や何かを得ることを目指さない生き方

になるのですね

これって逆説的ですが、余生を生きて

死の間際に自分の人生を振り返る時に

思い出すことは、何かを得たことでは

ないと思います

一生懸命、命の力の限り、生きたか?

精一杯、生きたか?

そう胸で思えたら、涙が一筋流れます。

それが、人が生きるということの重み。

思えなかった時の、悲しさや無力感

例えば大切な人がそばにいなくなったら

もっと大事にすればよかったな。

その感情、意識が浮かぶのは、その時に

精一杯やったと思えないから。

でも精一杯やったなと思えたら、無念さ

そして、無力感にはならない。

何か、幸せとか、何らかの生きる道とか

何かを求めて生きるというのはみんな

それぞれにあると思います

でも、筆者の場合は、明らかに違うなと思うのは

死に向かっていることの自覚と重みが強いことです

時間を無駄にできないし、無駄なことはしたくない。

今の生活の中で、自分にとってとくになる何かより

自分がどう生きたらいいかという問いよりも

自分が悔いがないか、精一杯やっているかの方が

筆者には強い執着があります

結果ではなくて、後悔がないことの方が大事です

結果でもプロセスでもうまくいくことでもなくて

一生懸命さがあるかどうか。

一生懸命になれるかどうか。

好きなことに夢中ともちょっと違います

難しいことに挑戦するというのは意欲が湧きます

やったことのないことをやるというのは意識が

やるぞ!と前向きで、強くなります

それが好きで、ずっとやってます。

80代になっても、まだあと10年と言いたい 笑

よっしゃ!やるぞ!と思えるようになりたいです!

人は、人から自然に何かを学びます

何かを感じさせられて、自然に気づかされます

見える景色はいつもどこかが違うのです

宇宙世界は今日も平和です

ミツシュウラでした

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