岡潔 智力
岡先生の本より響いたことを抜粋します
今日はこの本から
(夜雨の声より)
(要約)
たとえば他の悲しみを本当にわかったら、自分も悲しくなるというのでなければいけない。他の悲しみを理解した程度で同情的行為をすると、かえってその人を怒らせてしまうことが多い。軽蔑されたように感じるのである。
これに反して、他の悲しみを自分の悲しみとするわかり方でわかると、単にそういう人がいると知っただけでその人には慰めともなれば、励ましともなる。
このわかり方を道元は体取(たいしゅ)と言っている。
理解は自他対立的にわかるのであり、体取は自分がそのものになることによってそのものがわかる。
人の上にはこういうことをする智力が働いている。
古人はこれを真智と言った。
前に述べた意義までわかるのも、いま言った体取も、みなこの真智の働きである。
昔ブログで、宇宙世界は心の世界であり、心でわかる世界であると書いたことがあります。それは、上記のことを指しています。
コリさんが、宇宙空間の話をするとき、私は心でそれをとらえており、そこに情景が現れ、空間のエネルギーが正確にどどっと心から入ってくるので、感電したように、しびれるように、感じ入ります。それをどんどん深めて捉えることに感覚を研ぎ澄ませている間、周りの景色は一切消えます。無になるし、間があるし、時間がかかります。
しかし、心で捉える力がない人だと、しゃべり始めたり、わからないという反応をしたり、聞こえないと言ったりして、肉体的な反応が返ります。このことも、岡先生は本の中で言及しているので、まったく驚きです。
ようは、頭とか意識で理解しているのではなく、心という感覚をつかって心の窓を通してその世界に接続しているのです。
肉体の五感ではないのです。
宇宙エネルギーだって心から入ってきます。
チャクラでも気の流れでもない、別の感覚です。
岡先生いわく、心を向けると、心を通じて心象風景が浮かび上がり、そこから数学のことが現れるという趣旨のことを書いています。また芭蕉も心象風景により、自然界を深く深く入り込んで、澄んだ研ぎ澄まされた心で瞬時にそれをとらえて詩に詠んだと。
それを明治以前の日本人は、境地を深めて、心で対象を捉えたことに人生をすべてかけていた民族だったと言います。
しかし、明治以降に近代化の波によって、西洋の自然科学の世界に影響を受けて、情緒が忘れ去られたようです。
明治以前(古人)と明治以降の人の価値判断の違いとして本の中で次のようにたとえています。
古人のものは
四季それぞれよい、時雨のよさがよくわかる
わたしたち(岡先生の)時代は
夏は愉快だが、冬は陰鬱である、青い空は美しい
特性として、他を悪いとしなければ、一つをよいとできない
刺激をだんだん強くしていかなければ、同じ印象を受けない
これに対して古人の価値判断は、それぞれみなよい。
種類が多ければ多いほど、どれもみなますますよい、聞けば聞くほど時雨の良さがわかって限りない、こういった風である。
古人の評価の対象となり得るものが情緒なのである。
おそらく心の世界で対象を捉えて接続したら、どんどん深く入っていくので、夢中になっていき
すっかり好きになるのだと思います
ますます深みにはいり、ますます好きになるという状態。
飽きなどまったくこない状態です。
新鮮さを失わず、ずっと情熱を失わず、一途の状態。
それに対して、なんだか飽きたとか、なんかわからんとか、なんだかつまらないとか、うまくいかないとか、時間が進まない、同じところにとどまっている状態であれば、対象への魅力がなくなり、興味関心が薄くなっていく状態。
そうなると、もっと何かべつのものをと
何か新しいものに触手を伸ばすわけですよ。
なんかだらけたような、意欲がないような状態。
それは、ここでいうところの、対象との心のつながりがないからなんだと思います。
で、現代人は、これが多いのです。
心が接続先をもとめて、さまようわけです。
岡先生のいうところの、刺激をどんどん拡大させていって、対象がすごくよくなると、一方で、今までのことが色褪せるわけ 笑
で、岡先生の話がわかれば、現代人の心もわかる気がしますし
やっぱり、岡先生の予言は、そのまんま現実となっています
肉眼の目の世界、表層意識で見える世界に意識があると
インスタ映えに気をとられる意識になるわけです 笑
見える世界が全て! 見た目が大事!
見せることが大事! どんどん過激になっていくわけですよ
心が完全に閉じている状態。
智力が失われつつあるわけです
そんな時代の人たちに、智力を働かせて
心で宇宙空間に接続して、その世界を心で捉えるという話をしても
頭でわからないから、うーんとなるんでしょう
でもね、この時代に一番大事なんじゃないかな?
と思いましたよ
宇宙世界は、今日も平和です
みつしゅうらでした