気づきが深まると、現実逃避がいらなくなる?
コンタクトマンのミツシュウラです
今日は、朝ベランダにカラスっちがやって来ました
こっちを向いて、こちらをじーっと見つめた後に、飛び去って行きました。
そしたらば、同じく今朝、別の方の自宅のベランダに、カラスが2羽来ていたそうです
やっぱりじーっと見つめて、飛び去って行ったとのこと。
ただ事ではないような気がしました
普通のカラスはガーガーうるさく鳴くのだけど
うちにやって来るカラスっちは、鳴かないのよ。
なんか、可愛らしい目をしていました
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さて、2〜3日前から頭の中にペンダントの映像が見えるのです
それで、今日は外出することになったのですが、どうしても
ペンダントがつけたかったので、つけて行きました。
そしたらば、今日は人が沢山いる場所に行ったのですが
グワーッとその一帯の空間が、やけに重い感じがしたのです
ああ、これは持っていかれると思ったので、なるほどなーと。
ペンダントをつけて来てよかったなと思いましたよ。
空間の違いって、今やすっごいわかりやすいのですね
無事に何事もなく戻って来ました 😋
最近、風邪をひいている人がやたら多いんです。
鼻水とかくしゃみとか、ガンガンしている人がいて
菌が飛びまくっているだろうなとか、思いました
宇宙エネルギーがあると、身も心も軽いです!
軽い雪が降りましたけど、全然元気ですよ☺️
***
今日、色々と頭で浮かんでいたことなのですが
ひらめきというのは、無意識的であると書いて来ました
例えば誰かが作った映画を見ている状態だとすると
見ている自分(自我)は、自分が映画を作ったと思わないし
逆に、この映画作った人って、すげーなって思うわけです
つまり、ひらめきは無意識的であり、外部から来るもので
自分(自我)が考えたとか、自分が作ったとか思わずに
ただ映像を見ている状態となります
それが前頭葉に浮かぶひらめき画像であり、予知映像です
それに対して、自我が考えたものであれば、
自分が考えたとか、自分が先に考えついたとか
自分という意識が強くなるわけです
自我が介在すると、自分が強くなるわけです
そうなると、みにくくなるし、自我が強いと
大抵、人は苦しくなります
自我と、自我でない無意識からくるものの差を
わかりやすく例えてみました
ここから本題に入ります
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数学博士の岡潔博士は、自我が作り出したものは
とにかく醜悪だと言っていました
全く、その通りだと思います
ひらめきの場合は、外からくる映像を見ているので
自分が考えたって発想自体が頭に浮かびません
むしろ、あ!わかったという感覚と共に
昔の人が言っていた言葉の意味がわかるのです
つまり、共通性の意識の中に入り込むということ
そして、過去に誰かが通じていた世界だという
ことも、はっきりとわかります
だけれども、自我の場合は、自分が強くなるので
誰も発見していないとか、自分が先に思いついた
と、自分の意識が主体となって出てくるのですよ
そういう話をすること自体が、自我なのですね
ひらめきは、頭に映像が浮かぶのが先であり
自我が入り込む余地がありません
だから、感情もそこに生まれない気がしますし
すっきりと軽くて、もやが晴れて、爽快な感覚
に全体が包まれます
反対に、自我からくるものは、もやっとします 笑
(もやが出てくるよね)
***
それで、今日思ったのですが
岡博士はこのことを境地という表現を用いています
気づく力であり、深くわかることです
例えば、コリンさんの話を一回聞いて
もうわかったと思って、もういいやという人がいます
その人たちは大抵、わかったつもりになって掘り下げず
別の誰かの話に興味が移り、そこに意識が向かいます
このタイプの人を、業界ではセミナージプシーと呼んで
結構、多いらしいのですが
好奇心の向くまま、あっちこっち行って
わかった気になり、触手を伸ばしまくるのですが
結局は、いろんな人の話は、共通性がないために
結局、混乱する羽目になります 笑
なぜこういう行動になるのかというと、
ズバリ言いますが、掘り下げる力がないから
わかった気になり、錯覚をしているからです
物事を掘り下げる力のことを、境地と言います
おそらく、なんでも分野は構わないと思います
一つを掘り下げれば、同じところに通じます
掘り下げる力のある人であれば、同じことをしても
飽きないし、色褪せないと思います
じっくりと腰を据えて、取り組んでいる感覚です
掘り下げる力のある人は、わかった気になりません
むしろ、わからないから、明確にわかろうとします
わかろうとして掘り下げていくのですね
***
さて、ここからが本題です
境地が深まっていくと、つまり気づきが増して
わかるという悟りが深まっていくと
日常生活において、発見の連続となります
昨日の記事でも書きましたが、日常生活の中に
奇跡があり、未知の発見が山ほど起こるので
そうかー!という声が太くなります 笑
例えば、今日はある情報を見ていた時に
これはこうではないかと思ってコリンさんに聞いたら
そうだよと言われました。
また新たな大発見をしたのですよ
前は気づいていなかったことが、最近は
ピーンと来ることが多いのです
そっか、そっかの連続です
頭もすっきりと冴えています
この気づきの深度が高いと、日常生活が変わるのではないだろうか?
というのが、今日、頭に浮かんだことです
よく、昔のお坊さんが、わかったとピンと来たことを
悟ったと表現していましたが、このことですよ 笑
なるほど、なるほど、なるほど、うーん、そっか!
この状態になると、面白いというか、すっきりというか
あっけらかんというか、無我の境地になれるというか。。。
うまく表現することが難しいんですが
迷いもないし、悩みもないし 笑
焦ってもいないし、慌ててもいない状態
心がすっとしているというかね。
迷いとか、悩みとか、苦しみとか、不満とか
そういった重い感情とか、トラブルとか
間違ったとか、失敗したとか、うまくいかないとか
余計な手間がかかったとか 笑
そういう、ヘビーな疲れる空間にいないのです
すっきりしている
なんか、無理やり冗談を言ったり、勢いをつけて
物事を押し切ろうとしたり、ふざけて見たりとか
子供っぽい感情なんかもなくって
空間にピタッと静止している状態かな。 笑
だから、自分のいる空間が変わって来るから
そうなると、現実逃避をしないのよ
昨日、テレビを見ていたら、占い師の女性が出ていて
その人の旦那さんの話題になったのですけども
その旦那さんは無口で、ただよを捨てて、絵だけ書きたくて
島に夫婦で移住して、自給自足で絵だけ描いていたのです
しかし、子供が生まれたことで夫婦は変わっていき
奥さんと子供は島の人と交流するのが楽しくなるけど
旦那さんは、一人で絵をずっと描いているわけです
(ああ、現実逃避だなと思いました)
そのうちに、絵で大成したくなり、ニューヨークに行ったり
ヨーロッパに行くのだけど、旦那さんはそこに一人で
世界に浸って、絵ばかり描いているので
夫婦の溝ができて、離婚をしてしまいます
その旦那さんがどうなっているのかというのを
数年ぶりに番組が行方を探して取材したら
案の定、島に戻って絵を描いて自給自足して
年取って、えが売れなくて、仙人みたいになってました
思った通りだなと 笑
絵を描くことも、ニューヨークで絵で成功するのも
現実がつまらない、閉塞しているから、夢を見るのです
それで、本題をわかりやすく例えますが
ひらめきで、気づきの深度が大きくなるというのは
現実を逃避するためのでっかい夢など不要になるのです 笑
この画家さんの場合は、夢に逃げているのですよ
現実が苦しくて、絵が上手く描けないから。
だから、絵を描くために、わざわざ空間を変えなければ
ニューヨークという、外からの刺激がなければ
インスピレーションが湧かないのです
でも気づきの深度が高いと、空間が変わるので
ニューヨークよりも、自分の生活空間の方が
安定するし、エネルギーが高いのですよ
つまり、生活空間が高いと、仕事もうまく行くし
アイディアも湧くし、気分転換も適時できるし
別の場所に行って、そこで休息をしなくても
どこかに行って、何かを学ばなくてもいいし
自分の狭い世界に引きこもる必要もないのです 笑
それが言いたかったんだよね。
だって、ひらめくんだから 笑
楽しいという表現でもないし、満足という表現でもないかな
幸せなんて野暮だし、さっぱりと、みずみずしくて、爽快で
鮮度があって、心地よい(これが一番ピッタリだ!)
そんな状態に入って行くと思います
空間が違っているのがわかってもらえるかな?
それが、気づきの深まりの進化系だと思うよ
宇宙世界は今日も平和です
ミツシュウラでした